日露戦争で日本海軍の総司令官としてバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎は1848年、薩摩藩の士族の四男として生まれました。世は幕末、平八郎が9歳の頃には海防の重要性を説く薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)自ら藩内に海軍を創設すると、父は息子たちに将来は必ず海軍に入り国に尽くすように言って聞かせたといいます。薩英戦争で初陣を飾ると19歳で薩摩藩の海軍局に出仕した平八郎はその後、海軍士官に任官し23歳でイギリスに留学します。7年にわたる留学で海上法規や国際法を学び、世界と渡り合える知識を身に付けました。その後、長期の病気療養もして、華々しい実績があったわけではない平八郎の運命が55歳のときに大きく動きます。同郷の友人で海軍大臣の山本権兵衛が、平八郎を連合艦隊司令長官に抜てきしたのです。当初、周囲には反対の声もあったといいます。しかし山本は、平八郎の人柄や仕事ぶりから、その真の実力を見抜いていたようです。それは国際法に則った冷静な交渉力や決断力であり、精神論に頼らない客観的かつ合理的な戦略立案力であり、切迫した局面でも慌てることなく己の役割を完遂する意思の強さでした。日露戦争の勝利を受けて「勝ってかぶとの緒を締めよ」と訓示した謹厳実直な指揮官は、常に最先端の知識を求める先進性と国際感覚をあわせ持っていたようです。
日本近代文学の礎を築いた夏目漱石は1867年に東京で生まれました。二度にわたり里子に出されるなどつらい幼少期を過ごすものの、成績は優秀で現在の東京大学に進学します。卒業時に教師の声がいくつもかかりますが、当の本人は教職には前向きではなく、自分の本領に悩みながら愛媛県の松山や熊本の学校に勤めました。転勤となったのは37歳。若き頃より親交が深かった正岡子規の弟子・高浜虚子のすすめで初小説『吾輩は猫である』を著します。猫が人間を観察するという新しさが大きな反響を呼び、漱石は創作に喜びを見出したのでした。39歳で『坊っちゃん』を発表すると40歳で勤めていた大学を辞し、朝日新聞社に入社して職業作家として生きる道を選びます。大学の職に見切りを付けて当時は社会的地位が低かった新聞社に入った背景には、権威的で窮屈な大学への不満があったようです。陰気な性格という印象がある漱石ですが、実際は思慮深く周囲の人を敬う人柄だったようで、漱石のもとには和辻哲郎や芥川龍之介といった才能豊かな門下生が集いました。判断や行動の基準を自己に置いて自分を大切にするという「自己本位」と、天にのっとり私心を捨てるという「則天去私」。漱石を代表する2つの言葉は相反するようですが、作品を通じて自分の人生に照らしてみると、新たな発見があるかもしれません。
日本の政党政治の確立に尽力し「憲政の神様」と呼ばれた犬養毅は1855年、現在の岡山県岡山市で庄屋の家に生まれました。幼少の頃から勉強熱心で、父の病没後14歳で私塾を開いて自立を志します。しかし、学問への情熱を抑えきれず20歳で上京すると、新聞に記事を寄稿して収入を得ながら慶應義塾に学びます。22歳で西南戦争の従軍記者として赴くと、戦地の生のレポートが好評でジャーナリストとしての高い評価を得たのでした。27歳の頃に大隈重信が結成した立憲改進党に参加し、東京府議会議員に補欠当選して政界に転じます。そして国政に出たのは35歳。第1回衆議院議員選挙で当選して以来、連続で19回当選しています。所属した党はいずれも野党でしたが、これは毅が不正を嫌う清廉潔白な性格であり、政権獲得のための安易な妥協をしなかったことにも起因していたようです。議会政治を貫き、普通選挙の実現を唱え続けた毅の念願がかなったのは70歳のときでした。一度は政界を引退しますが、深刻な不況と軍部の台頭で不安定な状況の中、76歳で内閣総理大臣に就任します。軍事よりも経済や産業を重視してアジア各国の平和に尽力した毅でしたが「五・一五事件」により生涯を閉じます。襲ってきた青年将校に言ったとされる「話せば分かる」には、言論人として生きた毅の生き様が現れているようです。
医師から軍学者に転じて活躍し、後に近代軍制の父といわれた大村益次郎は1825年(1824年とする説もある)、現在の山口県に生まれました。代々医業と農業を営む家に育った益次郎は、幅広い分野の学問を身に付けます。21歳の頃に大阪に出て名門・適塾に入門するとさらにそこから長崎へと足を伸ばして蘭学と医学を修めます。その後、故郷に戻って医業に従事していた益次郎に大きな転機が訪れます。29歳の頃、蘭学の知識を買われて宇和島藩に召し抱えられたのです。ここから軍学者、兵学者としての道を歩み、後に木戸孝允に認められて長州藩に入りました。時に冷徹ともいわれた合理的な判断で長州藩の兵制改革を推し進めると1866年の第二次長州征伐でも戦略的に兵を操り自軍を勝利に導きます。43歳の頃に迎えた戊辰戦争では新政府の軍防事務局判事として事態の平定に向けて指揮を執ります。益次郎は混乱する江戸の治安を取り戻すため、戦火を最小限にとどめながら旧幕府勢力の彰義隊(しょうぎたい)を制圧したのでした。その後、新政府軍が函館を制し戊辰戦争は終結しますが、不平を抱く士族の襲撃を受け1869年に志半ばで生涯を終えました。益次郎は常々「常識を発達させよ。見聞をひろくしなければならぬ。小さな考えでは世に立てん」という言葉を訓戒として語っていたそうです。
幕末期、混乱極まる京都の治安回復に尽力した松平容保は1835年、美濃国高須藩主の六男として生まれました。高須藩は尾張藩の小さな支藩ながら徳川御三家に次ぐ家柄の名家で、容保は11歳で北の名門・会津松平家の養子となります。ここで家訓として「将軍家への忠勤」を厳しくたたき込まれました。17歳で会津藩主に就任すると養父の代から任されていた房総の警備や、桜田門外での穏便な事態収拾で高く評価されるようになります。折しも治安が悪化する京都に幕府は京都守護職の設置を決め、容保がその職に任ぜられます。幕府の形勢が不利な中、貧乏くじともいえる役職に反対する家老もいましたが、容保は「将軍家と盛哀存亡を共にすべしという家訓を守る」と宣言し、その心意気に感激した家臣たちと共に任に当たりました。しかし、新選組の力も借りて京都の治安を取り戻したものの時代の流れは変えられず、容保が32歳の頃に大政奉還となり、翌年に鳥羽・伏見の戦いが起きます。会津に戻った容保は鶴ヶ城で籠城戦に出るも降伏。その後は長く謹慎生活を送りました。後に尾張徳川家を相続することを頼まれますが「これまで数千人の家臣が命を落としたことを思うと自分だけが華やかな場に戻ることはできない」と固辞。愚直なまでに将軍家への忠心と部下たちへの義を貫いた58年の人生でした。
日露戦争での活躍で知られる乃木希典は1849年、長州藩の支藩である長府藩の家臣の三男として生まれました。幼い頃に暮らした長府藩上屋敷は『忠臣蔵』で知られる赤穂浪士の10人が切腹するまでの間、預けられたという縁があり、幼少期から赤穂浪士の逸話を通じて父から武士道をたたきこまれたといいます。17歳で長州藩の藩校・明倫館に学び、同じ年に第二次長州征伐で初陣を経験、エリート軍人としての道を歩むのでした。西南戦争では自らも深い傷を負いながら任務をまっとうし38歳でドイツに留学。45歳で日清戦争で大活躍します。日露戦争が勃発したのは希典が55歳の頃で、2人の息子たちはこの時期に戦死しています。長く苦しい戦いの末に日露戦争が終戦を迎えたとき、敵将であるステッセル将軍に最大限の礼を尽くした希典の振る舞いは、世界中から絶賛されて各国から勲章が与えられました。そんな希典は、上官としてとにかく部下を大切にしたそうです。どれだけ出世しても「それは部下の尽力のおかげ」と常に感謝の気持ちを忘れず、部下の失敗は責めない。戦場でごちそうが出ても部下と同じものを食べているかを確認し、違っていたら決して口にしなかったそうです。戦場で腕を失った兵士のために自ら義手を開発して自費で進呈しました。その後、兵士から令状が届くと涙を流して喜んだそうです。
江戸中期、財政再建を目指す幕府で老中として活躍した田沼意次は1719年に生まれました。全国的に農業技術が発達し、幕府の財源である米の値段が下落して財政状況は悪くなるばかり。かたや商人が大きな富を得る時代でした。当時の8代将軍・徳川吉宗はこの状況を打開しようと倹約令を敷き、農民に対して年貢率を上げることを試みますが、めざましい成果を挙げることはできません。こうした状況下、事態を打開すべく幕府は家格にとらわれない多様な人材を登用するようになり、家柄はさほどではなかったものの高い能力を持っていた意次が登用され、将軍の側近として活躍、老中にまで出世したのでした。意次は幕府に予算制度を導入し無駄な支出を抑制する一方で、税制や貨幣制度を見直して市場経済の発展を図ります。と同時に『解体新書』に代表される医学や蘭学、国学など学問を振興しました。また庶民の娯楽から生まれた小説や川柳などの芸術の発展も促して、人々の生活が豊かになるよう尽力しました。さらに蝦夷(えぞ)地の豊かな資源に着目して調査を行い、その地を開発してロシアと貿易を行うことを構想するなど日本の国際化にも先見の明を持っていました。長らく賄賂にまみれた悪役のイメージだった意次でしたが、実はその真偽は不明とのこと。近年、意次の業績と手腕が改めて見直されているようです。
「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の歌で知られる藤原道長は996年、藤原兼家の五男として生まれました。時は平安時代、藤原家は一族の娘を天皇家に嫁がせ、婚姻関係を結ぶことで権威に近づき栄えてきました。政治の実権を握る「幼少の天皇の代理人である摂政」「成人した天皇の補佐役である関白」といった摂関政治が確立されると、貴族たちは一族の娘を天皇家に嫁がせて政治的権力を握ることに腐心していました。末息子だった道長は、政変や親族内の争いを間近に見て育ち、政治の動向を見極める目を養ったといいます。父・兼家が摂政になり一族を引き上げたことに加えて、一条天皇の母である姉・詮子の後援も得て順調に昇進しました。そして3人の天皇に自身の娘3人を嫁がせて、貴族政治の全盛期を築き上げたのでした。このように政治力に長けた道長でしたが、文人の顔もあわせ持ち、華やかな王朝文学の発展にも寄与しています。娘・彰子を一条天皇に入内させる際に、彰子の品位と教養を高め一条天皇の関心を引き付けようと、当代一流の才媛たちを集めて彰子の侍女とします。その中の1人が紫式部で、道長は紫式部の執筆を物心両面で支援し、その結果、世界初の長編小説といわれる『源氏物語』が誕生したのでした。主人公の光源氏は道長がモデルになっているともいわれています。
明治から昭和のはじめに、医師出身にして中央政界に進出し、台湾や満州での都市計画、ロシアとの外交、関東大震災後の東京の復興などに尽力した後藤新平は1857年、現在の岩手県奧州市に生まれました。仙台藩の家臣の名家でしたが、戊辰戦争で敗れて士籍を失います。しかし、秀才として知られた新平は、廃藩置県後に着任した県の大参事である安場保和の目に留まり、その将来性を見込まれて医学の道へと進みました。医師として研さんを重ね、みるみる頭角を現すと若くして病院長に就任し、ドイツ留学も経験します。さらに新平の関心は、次第に個々の患者の治療から病気の予防へ、そして社会全体の衛生へと発展していきます。それが中央省庁への勤務、政界進出へとつながっていきました。新平が日本国内や植民地統治において大切にしたのが、まずは現地の実態や慣習を十分に研究し、現地の風俗を尊重しながら状況に応じて政策を進めることだったといいます。医師出身の科学的な視点を持つ新平ならではの手法から「科学的政治家」とも呼ばれました。また太っ腹で気が短い性格ではあるものの、愛情が豊かで部下に慕われる人間的な面もあったとか。日本のボーイスカウトの祖でもある新平は「人のお世話にならぬやう、人の世話をするやう、そしてむくいをもとめぬやう」と、いつも少年たちに説いていたそうです。
戦国時代に九州全土の制覇と島津家存続に奔走した島津義弘は、1535年、薩摩国に生まれました。これは織田信長が生まれた翌年で、2年後には豊臣秀吉、7年後には徳川家康が生まれています。島津家15代当主・貴久を父に、治政・文教に秀でた忠良を祖父に持った義弘は、4人兄弟の次男として幼い頃から勇武を好み、剣術を学びながら山中に野宿して野陣に親しむ日々を過ごしました。19歳の頃に岩剣城の戦いで初陣を飾って以降、九州制覇の野望に燃えて常に戦の最前線に身を置き、敵には時に鬼と恐れられるほどの武勇を誇りました。兄弟の中でも特にリーダーシップに優れ家臣に慕われたという義弘ですが、その基盤は祖父・忠良によって施された教育にありました。忠良は神道、仏教、儒教をベースに武士の道を説いた「日新公いろは歌」を完成させ、これは後に薩摩藩の家士教育の核となりました。そんな忠良の教育は、画一的に知識を詰め込むものではなく、4兄弟の個性に合わせて教えを授けていたそうです。例えば戦における秘策についても義弘と長兄・義久へは異なる答えを示しました。こうして義弘は「島津の退き口(のきぐち)」として知られる関ヶ原の戦いでの戦略的な撤退をして、島津の名を強烈に残したのです。複雑な思考と単純な決断、そして決断を貫く精神力は、今の世にも必要な力といえそうです。
新選組局長として激動の幕末を駆け抜けた近藤勇は1834年、現在の東京都調布市で裕福な農家の三男として生まれました。
育った多摩地方は武芸が盛んで、勇も幼少期から剣術を学んでいました。5歳のときに母が亡くなった後、勇の父は子育ての一環で『三国志演義』などの軍談を読み聞かせました。武勇で主君を支えた人物たちの英雄伝が、勇の忠を重んじる人柄を育てたようです。剣術が得意だった勇は、14歳で天然理心流(てんねんりしんりゅう)道場に入門。非凡な才能を開花させると実力を認められ、27歳で天然理心流4代目を襲名します。その頃、幕府が尊王攘夷達成のために浪士を募り、憧れだった武士への道が開かれました。尊王攘夷の志高く浪士組を結成した勇は京へ向かい、新選組として活動するようになります。その後、池田屋事件で長州藩士を制圧したことで幕府にもその存在を知られるようになると、結成当時は17名だった隊士の数は最大時には200名にまで達しました。
そして33歳の頃、幕府に功績を認められた新選組は幕臣に取り立てられますが、これは幕府の側に立つことを意味し、本旨であった尊王攘夷の達成からは遠ざかることとなりました。最後まで幕府への忠誠を貫いた勇は、新政府軍に捕らえられ斬首されます。忠と誠を指針とし、武士よりも武士らしく生きた33年の生涯でした。
徳川家による天下泰平がもたらされた江戸初期、夢を求めてシャム(タイ)に渡り活躍した山田長政。その出自には諸説ありますが、1590年に駿府(すんぷ:現在の静岡県)で商人の子として生まれたといわれています。城下町である駿府が活気を帯びる中、徳川家康の家臣だった大久保忠佐(ただすけ)の駕籠(かご)かきに任せられ、長政は武士の身分となります。しかし、江戸幕府成立後は戦乱も少なくなり、武士の出世のチャンスも激減。家康が起こした海外貿易ブームに触発される形で、22歳の頃にシャムに渡ったのでした。その当時、東南アジア各地には、海外で一旗揚げようと渡航した戦国浪人を中心に日本人形が形成されていました。長政はシャムの王都・アユタヤの日本人形にたどり着くと「自分は織田信長の縁者だ」とはったりをきかせて人々の心をつかみ、優れた弁舌と面倒見のよさで日本人形のリーダーとなります。その後、貿易商としても才能を開花させ、さらには日本人傭兵隊を組織してシャムの国防にも大いに貢献しました。その功績を認められ、アユタヤ王国の貴族の地位も得たのでした。しかしその後、王朝一族の確執に巻き込まれると辺境の地に追いやられた揚げ句、毒殺により命を落とします。武士の心と商人の才を併せ持ち、在外邦人の暮らしの安全と安定に心を砕いた40年の生涯でした。
長らく続いた貴族政治が武士の台頭により揺らぎ始めた頃、その優れた政治手腕で風穴を開け「平氏にあらずんば、人にあらず」と言われるほどの栄華をものにした平清盛は、1118年に貴族に仕える名門の武士の子として生まれました。文武に長け勢力拡大を図った父の跡を継ぐと、38歳で保元の乱でその実力を知らしめます。その後、妹や娘を天皇家に嫁がせて姻戚関係を結ぶことによって政権の中枢に上り詰めました。しかし、それは同時に周囲の強い反発を生むこととなります。反平氏で挙兵した源頼朝を抑えることはできず63歳で病死。その4年後の1185年に壇ノ浦の合戦で平氏は滅亡したのでした。貴族中心の政治に大きな変化をもたらした清盛ですが、日本のインフラ整備にも貢献しています。貿易を重視していたため、山を切り崩しその土砂で干潟を埋めるという大規模な干拓工事を行い、今の神戸港の位置に港湾を整備。また宋(そう)との貿易により宋銭を手に入れた清盛は、これまで物々交換だった日本に貨幣経済を持ち込んだのでした。同じく宋からは百科事典も取り入れ、天皇や貴族たちの贈答品として流通したことで日本の学問の進歩にも寄与しました。世界遺産で知られる厳島神社も平家一族の結束の象徴として清盛が造営しており、流通・貿易・学問・文化と多方面で今の日本の礎を築いたのでした。
明治政府で手腕を発揮した榎本武揚(えのもとたけあき)は1836年、旗本の次男として江戸に生まれます。学者肌で理系の父の血をひいた武揚は、早くから昌平坂学門所に入学。ジョン万次郎に英語を学び、18歳で箱館(函館)奉行のお供で蝦夷地(北海道)・樺太を視察します。このときロシア艦隊と遭遇し、欧米列強の脅威を目の当たりにすると国防の重要性を肌で感じて海軍の道を志します。長崎海軍伝習所に学び、技術者としての才能を開花。26歳で咸臨丸(かんりんまる)に乗り込み、オランダ留学へと向かいます。そして5年の留学を終えて帰国した日本は、幕藩体制が揺らいで終わりを迎えようとしていました。帰国後、半年も経たずに大政奉還が行われました。武揚は徳川政権再興を目指し、旧幕府艦隊を率いて蝦夷地に向かい五稜郭と箱館を占領しましたが、時は味方せず、新政府軍に敗れて2年半の獄中生活を送ります。しかし、その高い能力を請われ、無罪放免となって新政府に入ります。38歳でロシアとの領土問題を解決するべく、特命全権公使に任命されると見事、難しい交渉をまとめました。明治政府の高官となっても生き残った幕臣への援助を惜しまなかったといいます。北海道開拓事業にも情熱を傾け、生活に困った幕臣たちを助けると同時に、その先見性と技術力で日本の近代化に大いに寄与しました。
豊臣秀吉に仕え、槍一本で大名ににのし上がったことで知られる福島正則は1561年、現在の愛知県あま市に生まれました。秀吉とは縁戚関係にあり、幼い頃から秀吉のそば近くに仕えていました。かなりの剛腕でも知られ17歳で初陣を迎えると早々に手柄を挙げます。その後も功績を重ね、1583年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで輝かしい功名を立てたことにより、将来を大いに期待されるようになりました。しかし37歳のとき、秀吉が死去しその運命は変わり始めます。同じ豊臣の家臣でありながら反目関係にあった石田三成を倒したいという思いから、正則は徳川家康の思惑に乗せられ1600年の関ヶ原の戦いでは家康側として参戦。
ここでも戦功を挙げると安芸・備後(びんご)の2カ国、約50万石を与えられて大大名に出世します。広島城主となった正則は、政治でも手腕を発揮します。領内をくまなく巡視し、重要な土地には城を造るなどして組織体制を強化、街道や航路など主要交通路を整備しました。さらに年貢の率を下げると商人とも積極的に交流して畳表や酒などの産業も奨励し、堅実で近世的な治世を行ったのでした。しかし、2代将軍・秀忠に領地を没収された後は信濃に閉居し63歳で世を去りました。豊臣家に忠誠を誓うも家康の老練さに翻弄(ほんろう)された愚直で不器用ともいえる生き様でした。
初代内閣総理大臣として近代日本の基礎を築いた伊藤博文は1841年、現在の山口県光市で農家の長男として生まれました。
勤勉だった父は、その人柄を見込まれて長州藩士・伊藤家の養子となり、博文も利発さを見いだされて勉学の機会を与えられると一時は松下村塾にも籍を置きました。木戸孝允らと攘夷運動に参加した博文は、ここでも頭角を現します。その後、長州藩家老の計らいで、22歳の頃に井上馨らとイギリス留学に旅立ちます。当時のロンドンは港には蒸気船が停泊し、街中には工場が建ち並び、蒸気機関車も走っていました。近代文明を目の当たりにし圧倒された博文は、日本国内で攘夷にこだわる愚かさに気付き、開国して日本の近代化を目指そうと考えを改めたのでした。26歳で大政奉還を迎えると、実力を買われてその後も順調に出世道を進み、27歳で初代兵庫県知事、30歳で岩倉使節団の副使として渡米、44歳で初代内閣総理大臣に就任します。理想の国作りに向けて、国家予算や議会制などを盛り込んだ大日本帝国憲法の起草も手掛けました。60代で活動の場を韓国に移すと68歳で凶弾に倒れるまで、強いリーダーシップと驚異のバイタリティで働き続けました。
「人は誠実でなくては何事も成就しない」という博文の言葉からは、国の未来を思い真っすぐに情熱を注いだ様が感じられます。
幕末にアメリカで教育を受け、幅広い知識を伝えて日本を開国に導いたジョン万次郎は1827年、現在の高知県土佐清水市の貧しい漁師の家に生まれました。早くに父を亡くし、一家の大黒柱となったため若い頃から漁船にも乗るようになりました。14歳で延縄(はえなわ)漁船に乗った際、暴風雨により遭難し伊豆諸島南部の無人島・鳥島に漂着しました。幸運なことに、万次郎一行はアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救出され、寄港したハワイで落ち着き先を世話してもらえることになりました。
しかし、万次郎の賢さや機敏さに感心したホイットフィールド船長は、万次郎に教育を受けさせようと考えてアメリカに連れ帰り、生活の面倒を見ながら学校に通わせました。アメリカで英語や航海術を学び、周囲の愛情を受けて成長した万次郎。しかし、次第に望郷の思いが募ります。帰国を決意した万次郎はその資金を自力で稼ぎ、故郷を離れて10年後の24歳で日本に戻りました。語学力や海外経験を評価されて旗本に取り立てられると、船長や仲間たちの恩に報いるために開国を訴え、日米修好通商条約の批准書交換に向かう咸臨(かんりん)丸にも乗船。航海士としての手腕も発揮したのでした。身分の上下や貧富の差を気にせず平等に人と接したという万次郎。その原点はアメリカで触れた深い慈愛にあるようです。
幕末の混乱期、新時代への道を開いた高杉晋作は1839年、現在の山口県萩市に生まれました。家は代々毛利家に仕える長州藩の名家で、父・小忠太も要職に就いていました。10歳の頃、天然痘にかかり九死に一生を得た晋作は、その後遺症であばた顔となってしまいます。それを周囲にからかわれた悔しさがバネとなり、負けん気の強さや逆境で力を発揮する胆力を育てたといわれています。13歳になると藩校の明倫館に入学するも旧態依然とした学問の内容に物足りなさを感じます。そして18歳で松下村塾に入門、吉田松陰の教えに出会い大きく成長したのでした。その後、藩主の世話役となって本格的に藩政に関わるようになった晋作は、視察で上海を訪れます。そこで欧米列強の支配を目の当たりにし、幕藩体制が大きく揺らぐ日本の状況に危機感を覚えたのでした。晋作が倒幕を強く訴える中、長州藩は幕府や欧米列強と対立します。藩が敗戦の危機に瀕するたびに、晋作は奇兵隊で庶民の力を活用したり、意表を突く講和談判をしたりと奇想天外かつ大胆不敵な手法で藩を救います。盟友である伊藤博文には「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評された晋作。自身は「人は旧を忘れざるが義の初め」という言葉を遺しています。情熱と機転と行動力を持ち、忠義の心で幕末を走り抜けたわずか27年間の生涯でした。
南北朝の統一に成功した足利義満は1358年に足利義詮(よしあきら)の嫡男として生まれました。室町幕府初代将軍で、朝廷を南北に分かつこととなった足利尊氏は祖父にあたります。尊氏が将軍の器には不足な義詮の姿に不安を抱きながら逝去した約100日後に誕生した義満は、幕府再建の宿命を背負って10歳にして征夷大将軍に就任。南北朝の統一を目指す義満は、朝廷で天皇に次ぐ高い地位にいた日野家から正室を迎え、公家社会の実力者である二条良基から礼儀作法や和歌などの文化教養を学びました。当時、政治の中枢は朝廷が握っていましたが、義満は裁判や商工業の権利も掌中に収め、次第に朝廷をしのぐ影響力を持つようになっていきます。そして34歳の頃、半世紀以上にもおよぶ南北朝の分裂に終止符を打ったのでした。野心はこれにとどまらず「日本国王」の称号を得て、明(みん)との勘合貿易も始めます。こうして天皇家をもしのぐ権力を手に入れた義満ですが、50歳で急病により突然にその生涯を閉じます。義満の死後、第4代将軍となった義持は、義満の政治をことごとく否定。明との貿易も中止し、武家中心の政治に切り替えました。圧倒的なカリスマ性を持ち強権的だった父・義満の政治手法は父にしかできないという決断が、150年以上にわたる足利政権の安定につながったのかもしれません。
戦国の混乱を生き抜き細川家を大大名に導いた細川幽斎(ゆうさい)は、織田信長と同じ1534年に生まれました。室町幕府の幕臣の次男として13代将軍・足利義輝に仕え、時に都を追われながらも信長と組んで足利義昭を15代将軍に就任させることに成功します。しかしその後は反信長の姿勢を取る義昭と距離を置き、織田家の家臣となったのでした。本能寺の変で信長が自害したとき、幽斎の嫡子・忠興と明智光秀の娘・ガラシャは信長の命令で結婚しており、秀光とは長年の戦友でもあったため光秀から応援の依頼が届きます。しかし幽斎は剃髪(ていはつ)し信長に弔意を表すと家督を譲って一線から退くことで秀光には協力しないことを表明します。その後、和歌や連歌など文芸の才があり公家社会にも顔が広かった幽斎は、豊臣秀吉の参謀として力を発揮します。秀吉の死後、66歳で迎えた関ヶ原の戦いでは東軍の家康側につくことを決断。忠興も戦功を挙げ、細川家は東軍の勝利に貢献したのでした。結果、細川家は加増により39万石の大大名となり、幽斎の品格と教養の高さは後の当主たちにも引き継がれていきました。権力や金銭への欲はなかったといわれる幽斎ですが、情報収集力と時勢を読む冷静さ、時に冷徹にも見える判断を下すことのできる決断力が、今に続く細川家の伝統を築く礎となったのでしょう。
川中島の戦いなどで知られる連戦連勝の武将・上杉謙信は1530年、越後守護代・長尾為景の四男として生まれました。当時の武家では末子を僧侶にする習慣があったといわれ、謙信も幼くして禅寺に修行に出されます。7年間にも及ぶ厳しい修行に耐えた謙信ですが、家督を継いだ兄は武将には向かず、反乱を画策する家臣も現れます。
城に呼び戻された謙信は、反旗を翻した家臣一族を滅ぼして、その名声は高まります。その後、対立していた兄とも和解すると18歳頃に家督を相続。生涯の居城となる春日山城に入ったのでした。永遠のライバルであった武田信玄と数回にわたり戦を交えた川中島の戦いですが、その初回は謙信が23歳の頃でした。精力的に領土拡大を図っていた武田信玄に所領を追われた諸将たちが、謙信に助けを求めたことが発端だったといいます。戦乱の世にありながら領土拡大への野心は薄く、戦をするのは自陣が攻められたときと助けを求められたときだけでした。家臣たちにも「戦うのは義を貫くため」と説き、そのことが家臣たちの結束を強めていました。「心を証とせず取りはやし言成したることは、必定弱きことなり」とは「自分の心を証とせずに大げさに言ったり作り上げたことでは、人の心を打つことはできない」という意味です。正義感と義侠心にあふれる謙信が残した名言です。
俳諧を芸術の域に高めた俳聖・松尾芭蕉は1644年、現在の三重県伊賀市に生まれました。江戸時代初期の元禄文化が花開く頃、同じ時代に世の称賛を集めた文学人には近松門左衛門や井原西鶴がいます。18歳頃に俳諧好きな武家の嫡子に仕え、本格的に俳諧の修行を始めたものの、当主の早世により20代前半で無職となりました。世間も就職難で、学問や武芸で身を立てることは難しいと考えた芭蕉は、俳諧で世に出ることを目指して打ち込みます。20代後半、京都で出版される俳諧集に選ばれるなど実績を積んだ芭蕉は、意を決して江戸に出ます。当時、京都や大阪には新人が入り込む余地はなかったため、新興の地である江戸を選んだのです。臨時の職に就いて食いつなぎながら33歳でプロとして認められる俳諧宗匠(はいかいそうしょう)の地位を獲得。瞬く間に江戸屈指の人気の宗匠となりました。しかし36歳で突如、華やかな世界から身を引き、深川の草庵にこもります。当時の作風に行き詰まりを感じていた芭蕉は、経済的にも困窮し孤独に身を置きながら新たな作風を模索しました。芭蕉と名乗り始めたのは38歳、「おくのほそ道」の旅に出たのは45歳の頃でした。「人は変化せざれば退屈する本情なり」との言葉を残し、自身の句風も幾度か変化させています。俳諧に人生を捧げ、旅に生きた50年の人生でした。
東京税理士会所属
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